33年間、台湾の小学校に寄付し続けた女性。水谷雪さん

おもしろかったら友だちとシェアしよう!

水谷さんの夫は戦争中に台湾に渡り消息が不明になった。水谷さんは後に、夫は現在の竹田国民小学校の場所にあった竹田野戦病院で亡くなったと知った。その後、水谷さんは33年間にわたり同小学校に図書や奨学金を寄付しつづけた。

台湾の小学校に30年以上寄付続けた日本人女性… | サーチナ ーより引用

水谷雪さんが竹田国民小学校に初めて足を運んだのは、1981年8月4日でした。

到着してまず最初にしたことは、ひざまずいて、土を集めること。夫の遺灰の代わりにするためでした。

水谷雪さんはその後、平均で2年間に1度程度は同小学校を訪れ、書籍や奨学金を寄付しつづけました。

1140_01
寄付を行っている水谷さん

生徒や学校関係者の前で、日本の歌を披露したり、生徒らと一緒に歌ったり。次第に水谷さんは地元で「雪婆婆」、「Yuki Obajan」とも呼ばれ、慕われるようになっていきました。

1140_02
水谷さんを慕う子どもたち
1140_03
水谷さんを慕う子どもたち

竹田村は彼女を「第1号名誉村民」とし、村民の多くが村長自らが作詞・作曲した「Yuki Obajan」を口ずさむようになりました。

水谷雪さんの来訪の様子が収められている動画です。祝福されていることがよくわかります。

11月24日現地時間の午前11時に竹田国民小学校では告別式が行われていました。

用意された遺影には、扇子の図案の上に、明るい色合いで彩色された水谷さんの顔をがありました。

参列した人は、日本風に起立して遺影に向って合掌し、告別式の風景も、日本人と台湾人の心の交わりを象徴しているようだったそうです。

1140_04
用意された遺影の様子
1140_05
参列した人は、日本風に起立して遺影に向って合掌した

水谷さんが竹田国民小学校側に「是非、お願いしたい」と申し出ていたことがある。「自分が死んだら夫から贈られた結婚指輪を、竹田小学校敷地に埋めていただきたい」ということだった。水谷さんは「そうすれば私と夫の魂はいつまでも一緒に竹田の地にいることができますから」と述べた。学校側は、「2人の愛の物語に美しいピリオドを添えたい」との考えで、関連する儀式などの準備を始めたという。

台湾の小学校に30年以上寄付続けた日本人女性… | サーチナ ーより引用

台湾メディアは「水谷雪おばあちゃん逝去。竹田国民小学校で追悼」、「水谷雪さんの愛は台湾に残る」、「海を越えてつながる心」などの見出しで、長年にわたった水谷さんの寄付行為や夫への愛、そして現地の人々が水谷さんを慕いつづけたことを紹介しました。

出典
サーチナ
自由時報 123
Youtube